その昔は、見上げた時の形を錫杖(しゃくじょう)の先に見立てて、錫杖岳(または尺丈岳)と言われ、剣ヶ峰とも呼ばれていました。天明4年(1784)に登った阪本天山の登駒岳記には次のように記されています。「黒川の流れを渡り又田切川に沿う。この時まさに夜が明けようとする。金策峰が正面にあり…」と記しています。

昭和2年発行の赤穂村案内記の地図には剣ヶ峰9679尺とあり、「宝剣岳は一名剣ヶ峰と称し、大岩塊で最も峻嶮で峰は高くそびえてまさに崩れんとし、東は千畳敷に臨んだ絶崖、西は千仭の断崖になっている」と記されています。

この宝剣岳には、文化8年(1811)、諏訪の行者寂本が鉄製の錫杖を奉納しており、重さ7貫目(約26kg)と言われるこの錫杖には「奉納駒ヶ嶽大権現 行者下諏訪 寂本 世話人 小口初左衛門 文化八辛未年六月吉日 松本飯田町太兵衛作之」の銘があります。

寂本が奉納した錫杖
寂本が奉納した錫杖(しゃくじょう) (宮田村民会館蔵)

寂本が奉納した錫杖2


山頂の尖石の東裾には、明治15年(1882)9月に、諏訪郡平野村新屋敷寂本元講により「※1 手力雄命」(たぢからおのみこと)と彫った石碑が建てられています。

山頂の尖石上に安置された石造りの祠が大正の後期まで存在しましたが、知らぬ間に消失していました。恐らく台風によって谷底深く転落したかと推測されますが、滅多にない石造りの祠でしたので、惜しまれてなりません。と中アの開拓者堺澤虎一氏の著書に記されている。
昭和2年(1927)発行の赤穂村案内記には、「頂上には祠があり赤穂村にて祭るもの」と記してあります。今ではこの石の横に木の小さな祠があり、石のピークに登るには※2祠痕の縁を手掛りとして登ります。
最近見つかった大正4年に宝剣岳に登った学校登山の写真には宝剣岳の尖石の頭に祠が写っている
   
                       大正4年に登った時の姿                      (駒ヶ根市立博物館蔵)

※1手力雄命…高天原(たかまがはら)随一と言われる腕力に優れた神で神話の中では、素戔男尊(すさのおのみこと)の乱暴に怒り、天岩戸に隠れてしまった天照大神が、八百万の神々が集い騒ぐ声に何事かと岩戸を引き開けた時、その手を取って岩戸の外へ引きずり出しています。言い伝えによると手力男尊は、天照大神が再び隠れることがないよう、岩戸をその怪力で投げ飛ばしており、それが北信濃の戸隠山になったのだと言い伝えられています。

※2祠痕の縁…中岳山頂にあるような花崗岩の石の社を設置するため、宝剣岳山頂の尖石上を平らに削り設置したときの窪みが「ふち」と呼ばれる突起となっていて手をかけることができます。

山頂石にある天手力王命痕跡
山頂石にある天手力王命痕跡

山頂の石造り祠設置跡
山頂の石造り祠設置跡

山頂の手力雄尊碑
山頂の手力雄尊碑