その昔の生活は農業が主体であって、所謂米の量石高で経済が成り立っていた。したがって旱魃は百姓に大きな打撃となった。旱魃が続くと神頼みや雨乞いの行事が行われた。 伊那谷の古い記録には光前寺の青獅子を持ちですと雨が降る謂れがあった。

一方濃ヶ池は、伊那谷(西春近.宮田.赤穂地区)の水源の元であり農家池とも言われていた。

中岳の山頂の社の裏に石室のような空間があり、穴の上の石に青獅子岩と彫られている。

昭和23年4月に71歳でなくなった中割八幡原の足の不便な倉田利市氏が47歳の時(大正13年8月)光前寺の壇徒ではないが住職と懇意な関係であったので青獅子を見せてくれと言い、お寺のお大黒さんがお茶の支度をしている間に担ぎ出して、北御所を登り宝剣小屋に着いた。濃ヶ池で獅子を浸して雨乞いをするとの事に小屋番は天気も良くないし遅いので「やめとけ」と言ったそうだがどうしても行くと出かけた。

中岳まで来た時、猛烈な夕立に遭い石穴に避難した。石穴の手前の巨岩に「雨乞記念石大正13年八月.・昇天之際・赤穂倉田利市・於此石上祈願・成就」と記した岩と避難した石穴に「青獅子岩」と記したてある。その日事は、明治生まれの初代ガイド組合長の堺澤虎一翁や小屋番の友野力松さんが、濃ヶ池までは行けず中岳石室で雨宿りをしていた、と話された。地元では、利市がいなくなったとして消防団が出て捜したところ嶽に登ったと判った。光前寺の本堂には下山した時の記念写が上納されている。

平成7年発行宮田奉賛会「駒ヶ岳の信仰と登山誌」中。信仰碑及ホコラの欄に「中岳. 摩利支天.嘉永六年六月.伊那部御籃講」と記されてる中岳の東端に飛び出た岩があり、ここに麻利支天と記した石碑がはめ込まれいてた。 一時は、社の脇に置かれていたこともあったが、本来は麻利支天は主峰の前面に祀られ麻利支天は、を神格化した女神。常に身を隠し、護身・得財・勝利などをつかさどる。日叉神通力を有すとされてる。その特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。

楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。山本勘助や前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されていて日本の山岳信仰の対象となった。 主峰の前山が摩利支天と呼ばれている場合がある。実例として木曾御嶽(摩利支天山)、乗鞍岳 (摩利支天岳).甲斐駒ヶ岳の摩利支天があげられる。その殆どが岩や岩山である。

尚今は、中岳のこの岩の上には見当たらない。(写真は平成2002年5月28日撮影)

摩利支天