地蔵平の地蔵菩薩1

駒ヶ岳線の地蔵平バス停の大石に隠れるように地蔵尊があります。

しらび平行のバスの中では、木食上人(もくじきしょうにん)が石のノミで作ったものであるといわれており、
路線バスのアナグスでは、縁結びの地蔵であると説明されていますが、縁結びの地蔵は、右手に錫杖を持ち左手に宝珠を持っている。
この地蔵は、子宝に恵まれ健やかに成長するようにと創られ、子育て地蔵や安産地蔵が多いと言われています。

宝暦6年(1756)8月、検分のため駒ヶ岳に登った高遠藩郡代阪本運四郎英臣は、その復命書に「帰命山に登る。このあたりは草深く樵夫の通う一足掛りの道がある。その小口に石地蔵がある。これは昔、山体という僧が手杖の鑽にてこしらえたという。高さ二尺、幅一尺三寸あって頭がまるく目耳鼻口の形は少々見えるが胴は四角目の石で手足の形はなく、座像か立像かはっきりしない」と記しています。

木食上人とは、身を浄めるため、火を通したものを食さず、五穀を断ってそば粉や木の実、木の皮類だけで生きていく修行をした僧の事です。

帰命山地蔵平には草庵があったとされていて、地蔵像を彫ったと伝えられる上人は、称号を木食但唱、号を満厳と称し、天正末(1592)頃、摂津国(現兵庫県)に生まれ、13歳の時父を失い、18歳で仏門に入り、佐渡に渡って難行苦行して身心を鍛えました。その後信州に入り、中南信の地を巡業して石仏を作りました。赤穂地区には安住寺の地蔵尊、地蔵平、上赤須観音堂(向垣外の地蔵堂)の地蔵尊像の3ヶ所が残っています。

駒ヶ根市誌によると「寛永8年末当所大田切山に山居し給うに、近郷と争論が起こり修行のさわりと思し召し上穂の傍らへ下らせ給」とあり、倉田氏(現中割八幡屋号大南)の寄進により安性寺を創立しています。

地蔵平の地蔵菩薩2

地蔵尊=地蔵菩薩…

仏教では、釈迦が亡くなったあとは、弥勒菩薩が悟りを開くまで、我々の世界には仏がいないと考えられており、このいわゆる無仏の時代に、娑婆世界を守るように釈迦から厳命されたのが地蔵菩薩です。地蔵菩薩は、あらゆる世界の衆生を教化し、救済に努めるとの誓いを立てていることから、死者の世界でも罪の救済をはかってくれる、ひいては、幼くして亡くなった子供をも守ってくれるといわれ、子供の守り神としても信仰されるようになりました。