登駒岳記1

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登駒岳記4


登駒岳記 (pdfファイル、255660バイト)

登駒岳記訳

そもそもこの山、駒という文字をもって名がつけられたのは、形がそこに現れているからである。

信州に風土記なく、ほかに書籍に書かれたものもまた得て考えることがない。

これは文献が足りないためである。昔この地をだれが治めたのかも知ることができない。

今、高遠の城からこの山を望むと、数々の峰が並ぶうちの中央の峰に、青き形が雪が降ると現れる。

風のごとき馬が走る姿のようである。四、五月のころはことに鮮明で、その両耳、片目、右を向く口、前足、鬣(たてがみ)、長き尾などなどと、一つ一つ指し示すことができる。私の藩主が高遠の地に領土を得てから、そのすばらしき様を調査できた者は少ない。余の祖先がかつて郡の宰相であったとき、意を決し、彼の遠き山の頂に至り、そのすばらしき様を細かく調べ、図に表して先君に献上した。その下書きが今も我が家に所蔵されている。

山の東西七十里。東側は伊那、南へ行くと天竜の長き流れに臨み、西は木曾に面している。十一の連なった伝駅が麓を兼ね、南北は二百里ほどに連なり、小野村に始まり飯田城に至る。これが概略である。

先人が登ったところによると登り下り八十里。その行程はすべて領内であるという。余が家督を継いで出仕してから十七年。未熟であるゆえにその官位をはずかしめ、ただ眺めるのみの心情に耐えられず、明くる年の秋、幸い少しの間事なきを得たので、卒従や属吏のそのあたりに詳しいもの田生や侍史某の希望を受けて登る。薦めた仲器、叔器も従う。年若い従者十人余、役夫百人。

余は車に乗って出発する。実に七月二十三日(新暦九月七日)のことである。

その日の夕、宮田駅に着く。おおきな山懐である。夜になって暑さきびしく、二更(午後九時から十一時)

に仕度を整え、村人に案内をさせ、進路を駅の西の方向へとり、田切川にそって流れに遡ること十里ばかり、ようやく谷の入り口に入る。けわしい峡谷がそびえ、巨岩が道の両側にならび車を入れず。余はすなわち車を下り、青き草鞋をつけ、松明を先頭にして道をてらし、歩みを谷口へと進める。大岩あり。

体を縮めて這うようにして過ぎる。土地の人は髯磨岩と名づけている。黒川の流れを渡り、又田切川に沿う。この時まさに夜が明けようとする。金策峰が正面にあり、これを仰ぐとまさに高い。そのとき、カッと峰の頂に火がおこったかに見え、付き従うもの皆驚く。よく見れば、朝日が雪にあたり急に焔のごとき光を発したのである。右の傍らの山裾にとりつき、青き山肌を上がる。帰命山という。

鬱蒼たる木々が生え茂り道もさだかではない。登ること五.六里。少し平坦になる。石のかげに石仏があり。伝えいう。むかし流れきた三休という者あってここに住む。これはその遺跡であると。年代をたずねたが明らかにすることできず。この場所にて左の方を見るに、二つの峰が並そびえ、中間に長き洞が明らかに見える。これこそ源君駒王の騎馬軍団を率いて越えた処である。

山の中腹に道をとり、枝の垂れた木の中を西へ十里。中間の大樹を目指し、そこで休む。両岸の山はいよいよ険しさを増し、人の踏み入れた形跡もない。突然谷川に出る。這うようにして下ること三里、谷の傍に出る。渓谷はますます眼前にせまる。この前に過ぎた所を北御所の山という。渓谷は折れ曲がり、石はみな滑らかにして大きさは屋根ほどもあり数え切れず、その形希なること例えようもない。一行の者皆串刺しにした魚のごとく一列になって行く。

 数里行ったところで冷泉室に到達する。ここは先人が宿をとった処である。ここに宿営の荷物を解く。

伝えられる所によると、上の方を中御所の山といい、南北朝のころ、南朝の皇の子孫がひそみ隠れてこの山に入り宮を設けて居たということが国のならわしをあつめたものにあるけれども、土地の人そのこと暗く、散逸しい文章に表すことできず、それゆえ記録することもできない。宮室のことを御所と呼ぶことから山にその名がついたというのは、まさにわけある事で、余はその事を聞いて感慨を深くする。

 徐々に進むと谷はますます急となり、水は次第に涸れ、石も険しく、一歩一歩足裏で足がかりをつくりながら進む。行くこと二、三里。左にあふれる水あり、絶壁の上に落ちる。道士瀑という。少し行って一山を越えるとまた同じ姿。明王瀑という。途方もなく奇なること言葉に表せないが、皆先人の描いた通りである。少し北へ進みおおきな部屋のような所につく。ここで頂上を仰ぎ見ると、金策峰、畳石峰が並んで聳えたち、何千ひろ(一ひろは八尺。一説に四尺)あるかわからず遠くからこれを見たのとは比べようもない。谷あいに1千尺もの激流が雲の間から流れ落ちるのを見る。いわゆる大瀑である。

これまた先人の描くところである。感激止め難し。近くへ行きて観ようとすれども険しくて容易に進むことができず、望見すれば近く、行こうとすれば遠い。気をつけて歩を進め、ようやくその場所に着く。

絶壁千ひろ。中央に大岩がそそり立ち、水はその裏側まで別れて流れ落ちている。水しぶきが反射して虹をえがく。飛び散る水の流れは百条にも別れ、空中に白いねりぎぬを掛けたようである。我仲器とその下に行き、草を敷いて座り、しっとこれを見る。日が傾いてきた。落ち口のところへ小屋をかけ、宿ることにする。心澄みわたり長き寝ることができない。夜半に月が前峰を照らし、清く涼しげな様が目に見え、鈴の音のごとき音が耳に響く。余それによって立って彷徨すること久し。しばらくして賄いの者が食事の仕度ができたことを告げる。仕度を整え、石に腰かけ食べる。先導者が言うに、右の砂が崩れたところを進むと三つの巨岩がある。とても険しく登ることができない。大瀑の脇に沿うと刃物で削ったような岩がそそり立ち、屏風のようである。高さ百ひろのところがあり、そこを登れば険しい中であるがわずかに人を容れるだろうと。

 従者皆猿が連なるようにして登る。左右交互に足をかけ、所によっては綱を懸けてそれを伝う。片方の手を綱に、もう一方の手を岩にかけながら、片足を足場を選んでかけ、さらに片足をかけるという状態で、ふりかえって見ることも、下を見ることもできない。一行の人、前の者が立ち止まると後の者が何事かと尋ねる。魔胸ョ、石捫天といえどもこれほどではないであろう。

 このような所百ひろにしてやっと屏風岩の上に着く。奇岩が幾重にも重なり言い表せない場所に出る。枝がまがり垂れた木が生い茂っている。大きなものはないが根が不気味に絡み合い、石ばかりで土がなく、苔がびっしりと覆い、所により霊柴が生えている。広さは十里ほどに広がっている。

前峰の下に着く。巨岩があって層をなす城のようであり鄧林があって戈や矛を立て並べたようである。なぜこのような険阻なものがあるのか知るよしもない。これがいわゆる三巨岩の一つである。横に沿って登りこれを過ぎ、さらに行くと道がある。樵夫の道のようである。人里離れること数十里。本当に人がいてここを往来していたであろうか。いやそんなことは信じられない。

 この道に従って行くこと一里ほど。木は皆立ち枯れている。積雪が押しつぶしたのである。五鬣蔓延之松多し。はげましあって登ること三里。はじめて前岳の尾根に出る。小岩が散らばり希にして愛らしい。石の上に往々蹄の痕があり。山に住む駿馬が駆け回った痕であるという。歩を進めて高き嶺に登る。

いわゆる真人峰である。東西を顧みれば駿馬が棲む谷や州境の山々がはるかに広く連なっている。ここを過ぎて行く。まだまだきりなくぼやっとして天地も混然として、海らしきもののほかに見えるものはない。ここからは嶺はそばだち両側は崖となる。広さ一ゆみ(八尺)。崖の南北の深さ千ひろ。尾根は畳石峰へと続く。領域をおさえ騎乗して行くかのようである。

 鳥有り。体は鶉、翼は鷲、すねに毛があり、羽ばたいてはい松にとまる。その名を知らない。峰の頭に石あり、色青く黒く緻密で、字を記すによい。そこで銘を作り工人数人によってすぐに刻ませた。すぐに金策峰の下に出る。そこに至って眺めると、怪しげな岩がそそり立ち、九層の浮屠のようであり六環の金策のようである。仲器と叔器は軽やかにすぐに登ってその頂上に着く。余は垂堂を重んじるがゆえにあえてのぼらず。

 金策峰の北にけわしい大岩がそびえている。天狗岩である。そばだちて数千ひろ。これを見ることは人に病悸をおこさせる。余言う。天狗は星名であり、星が落ちて石となると。昔からこのようなことはあり、伝記に聞くべきである。天官が言うに、落ちたところに炎火が及ぶと。また言う。黄色は千里に軍を破り将を殺すと。であるから今この地に落ちるが炎火の憂いあるわけではない。すでに落ちて石となった。また、どうして傾敗の事に関するであろうか。この一物は、もって代の和合を観照するに足りると言う。

 ここから北へ行くと百畝の平地がある。山霊が馬を飼いならした所であると伝えられる。傍らに多くの石が重なり籩豆(祭祀で使う器)のような、酒樽と台のような、兵車(戦車)のような、舸船(大船)のような、槽櫪(馬小屋)のような、鞮ろう(音楽官)のようである、またおおくが奇妙な形しており表現しようがない。西は巨霊峰である。そこに行って北を望めば三越(越前、越中、越後)の山々が折り重なるようにして現われ、そのはるか向こうには広い海がはるかに遠く見え、前に見えるぼやっとした大きなほりの色とは似ていないという。

(小池 孝氏 訳・竹入弘元氏 一部補う)