濃ヶ池(のうがいけ)詳細

今から数万年前の氷河時代に作られた氷河圏谷底湖(ひょうがけんこくていこ=氷河の底に出来た湖)で、日本では数箇所でしか見られない貴重な自然遺産です。

天文元年(1736)高遠藩の内藤庄左衛門が領地検分した時後駒ヶ岳一覧記など古くからいくつもの文献に濃ヶ池の記述が見られます。

濃ヶ池は木曽側の雌濃ヶ池(めのうがいけ)と対比して雄濃ヶ池(おのうがいけ)とも言われています。明治40年(1907)には、辰野小横川宮木新町の講中が、池の傍に青銅製の黒體竜王(こくたいりゅうおう)を祀りました。

中箕輪尋常高等小学校の遭難記「聖職の碑」の作者である新田次郎の現地見聞によれば、遭難者の清水政治と萩原三平が朝までビバークした岩が、濃ヶ池をすぎると、右側に3つの岩が重なり合うように三角の空洞を作っていて、その空洞の口が東を向いてあり、大人2人は無理だが、大人と子供2人ならようやく入れるぐらいの容積があったと記されています。

また、大正13年(1914)には、濃ヶ池小屋がありましたが、雪崩のため度々倒壊し、修理に耐えきれず、昭和5年(1930)3月に帝室管理局に返地しています。

濃ヶ池
濃ヶ池
濃ヶ池に祀られている神々
濃ヶ池に祀られている神々
濃ヶ池の社と神々
濃ヶ池の社と神々
青銅の天台大神
青銅の天台大神

<濃ヶ池の伝説>

木曽日義に伝わる濃ヶ池の伝説

お濃は、隣の大原の農家の娘で、年頃になり原野の六郎左衛門基へ嫁ぎました。ある日帰りが遅くなった夫が、寝支度をして部屋へ入ってみると、熟睡しているお濃の体は大蛇に変わり、髪は逆立ち、肌も鱗で覆われていました。夫は余りの恐ろしい姿に驚き、お濃を家から追い出してしまいました。お濃を迎えた実家では、「娘にありもしない難くせをつけるなんてとんでもない」と憤慨しましたが、夜になり父母がお濃の部屋をのぞいて見たものは、まぎれもなく頭髪逆立ち鱗が生えた大蛇の姿でした。

お濃は実家からも追われる身となってしまいました。夫からも父母からも見捨てられ、天涯孤独になったお濃は、その不幸を嘆きつつ野原をさまよい、大きな石上で野宿したりしました。(この岩は七尋石として今でも大蛇の鱗とお濃が持ち歩いた麻桶の跡があります。)

そして絶望の中、柳の枝で杖を作り、大原の奥にある駒ヶ岳の麓の池にたどり着きました。青く澄みきった静かな池を見つめていたお濃は、やがて杖を岸に突き刺し水中に身を投じました。

その後里人は、この池を濃ヶ池と呼ぶようになりました。お濃が入水した後、岸に刺された杖は根付いて大きな柳の木になりました。そして、池のほとりの柳の木の下に立つと、池の中から機を織る音が聞こえてくるときがあり、その時は必ず大雨が降ったといいます。

濃ヶ池について記述のある文献

『駒ヶ岳見分復命書』…内藤庄左衛門

「のうか池というのは三つある。残りの二つのうち、一つは木曾側の七分目程のところにある。これが一番大きく、本のうか池というべきであろう。もう一つは空木岳にあるが、こののうか池には水中畏形の筋など見当たらない。」という記述があります。

『駒ヶ嶽詣』…俳人東朝軒亀伯

「7月20日朝 内の茅―澤道―1の池―扇平―釜の岩―体内くぐり―将棋頭―(昼飯)―濃ヶ池の頂―濃ヶ池に下り―駒ヶ嶽大権現に雨を祈る(夕食)岩角に眠る」

「濃ヶ池の名は、此処の池水が流れ出していて黒川となり耕作の用をなすゆえ"農家池"とも言い、木曾側の雌濃ヶ池に対比して雄濃ヶ池ともいわれている」という記述があります。

『駒ヶ岳見分復命書』…坂本運四郎英臣

「検地の場所として前岳の峰の平地・本嶽の峰の平地・尺丈ヶ嶽下石・尺丈ヶ嶽より二の嶽の間の平地・濃ヶ池・一の泥が池・二の泥が池・三の泥が池」という記述のほか、池に入って深さを計ったり、飲んだりして調査したとの記述があります。

『信濃木曾駒ヶ岳』…蕗原拾葉

「上松登山コースの八合目の右の山に種池がある。」という記述があります。

『吉蘇志略』…松平君山

「駒ヶ岳の西北の麓にあり、山の上に池あり表面は三町ばかり、其の深さ測ることできない。水の色藍の如し。」という記述があります。

『駒ヶ岳由來記』

「此山に池あり、第一を身會貴池と言い、第二を駒飼池、第三を農ヶ池と言ふ」という記述があります。

『駒ヶ嶽に纏わる話』…下村忠比古

「木曽駒農ヶ池と称して駒ヶ岳本岳から西北に向かって木曽側に少し下ったところに池がある。其渓岩壁の一部が崩壊したので、枯渇して今は小さくなっているが、依然は濃ヶ池よりも大きく木曽の人たちは“本のうふか池”と呼んでいる」という記述があります。

『駒ヶ岳登山記』…田中甚庵

この絵図の中には、西山権現に下る途中に三か所池の目印がありニゴリ池と泥池と記されています。

後駒ヶ岳一覧記 (pdfファイル、3039239バイト)