貞一霊神

山頂東方の伊那側に一つの祠が立っています。伊那側からの駒ヶ岳開山は、文化元年(1804)、御嶽講の寂本行者が最初に登っています。いつ祠を建立したかは、不明ながら、天保3年(1832)、傷んだ祠を平沢貞一という人が再建し、その後安政6年

(1859)に再度改築した記録があります。貞一は伊那市西春近小出の生まれで、生家には貞一霊神があり、先達行者として碑文があります。

貞一霊神

平沢貞一父曰定右エ門其三男也幼有敬神之志雖路傍之雑社拝而過長為行者苦心焦思欲開駒嶽結講社称駒嶽開闢講登御嶽山凡百有余任教導職爾後其徒益進社員益加為一万人講社之大先達鳴呼命数有限耶将神迎此人耶向神前唱祭文声尽忽然而逝矣時年六十二則明治十三年十一月十三日也 名曰駒嶺道別男命後十一年追号称 駒嶽大開山爾云 文皐撰并誌

(裏)明治二十五年十月十日建之平沢本治郎 石工 田口末造

<訳>

貞一霊神

平沢貞一の父は、貞右衛門といい、その三男である。幼くして神を敬う心があり、(大きな神社ばかりでなく)路傍の小さな社でも拝んで通り過ぎるのであった。成長して行者となり、苦心して思いを焦がし、駒ヶ岳を人が登れるようにしたいと欲し、そのための講社(結社グループ)を結成し、駒嶽開闢講(駒ヶ岳を開くための結社の意味)と名付けた。平沢貞一は、御岳山に登ることおよそ百回、教導職(人々を教え導く任務)に任ぜられた。それ以後講社に参道する人が殖え、社員がますます増加し、一万人という大勢の講社の大指導者になった。ああ人の命には限りがあり、神がこの人(平沢貞一)をあの世に迎えようとしたので、彼は神前に向かい祭文を唱えてやがて声が尽きて、たちまち逝去した。時に六十二歳で、明治十三年十一月十三日であった。名は「駒嶽道別男命」といった。その後十一年に追号して「駒嶽大開山」といった、とそういわれている。

(内田)文皐が撰(文章を作ること)をし、並びに執筆した

(裏)明治二十五年十月十日これを建てる 平沢本治郎

                石工 田口末造
訳文・竹入弘元氏

生家の脇の碑

生家の脇の碑

更に生家の上部にある山本地区にも、明治15年に建立された御嶽山大権現・駒ヶ嶽山大権現の碑の隣に心覚霊神貞一霊神の碑があります。