木曽駒ヶ岳登山史詳細

日本には「駒ヶ岳」という山が26峰あるといわれています。そのほとんどの山が、雪形や馬にちなんだ言い伝えを基に名前がつけられました。木曽駒ヶ岳は、その昔、雪形が出る中岳を駒ヶ岳と呼び、本岳の山頂は乳ヶ岳(ちちがたけ)と呼ばれていました。阪本英臣の駒ヶ岳見聞復命書には三ノ岳(さんのだけ)と記されています。

1 暦応元年(1338)高遠太郎家親が山道を開き八社の大神を祀るという(駒ヶ嶽尋書)

2 天文元年(1532)上松の徳原長太夫春安が山頂に保食大神(うけもちのおおかみ)を創建 山頂木曽側の神社横に現存

山頂の保食大神
山頂の保食大神(うけもちのおおかみ)
駒ヶ嶽由來記 (pdfファイル、1069073バイト)

3 寛文4年(1664)尾張藩の佐藤半太夫が山回りする(新著聞集)

4 宝永7年(1710)旧小出村(現沢渡)の人々が雨乞いのため濃ヶ池に登る

5 正徳年間(1711~1715)宮田の人々が黒川山で伐木 権現つるね(つるね=尾根の一番端の小ピーク)より本岳に登る(駒ヶ嶽一覧記)

6 享保4年(1719)北川藤大夫が駒ヶ岳の絵図を描くため奈良井から登山 この年、幕府の命により野呂源治が薬草採取(木曽薬譜)

7 享保4年(1719)5月 大久保下野守が奈良井から登山検分 薬草12種を取る(上伊那誌)

8 元文元年(1736)8月 高遠藩士の内藤庄右衛門他114名が小出から登山(駒ヶ嶽一覧記)

9 宝暦6年(1756)阪本天山の父、英臣が宮田より中御所谷を経て駒ヶ岳へ登り、見分絵図を作成(駒ヶ嶽見分復命書)

10 天明4年(1784)7月23日 阪本天山ら86名が帰命山中御所谷、白檜平(しらびだいら)、日暮(ひぐらし)の滝を経て駒ヶ岳へ登り、前岳の岩畳に、漢詩16文字を門人であった岡村忠彛(おかむらただつね)に書かせ、石工が刻む(登駒嶽記)

11 寛政7年(1795)小町谷文五郎と唐木五郎右衛門らが錫丈岳(しゃくじょうだけ)に不動尊像を安置 後に不動滝に移転す(不動明王像建立記念碑)

12 文化年中(1804~1818)普寛行者が駒ヶ岳登山道を開き、犬山の心明行者開山に尽力

13 文化8年(1811)6月 宝剣岳に下諏訪の寂本行者が錫杖を奉納する(奉納錫杖銘)

14 文化14年(1817)江戸の梅竜院法印普盛行者らが宮田宿竹屋を発って駒ヶ嶽に登山(登山記)

15 文政元年(1818)梅竜院法印普盛行者が駒ヶ岳各所に銅仏を安置(駒ヶ嶽登山記)

16 文政2年(1819)梅竜院法印普盛行者が濃ヶ池に弁財天社建立(駒ヶ岳登山記)

17 文政5年(1822)梅竜院の弟子 善正院法院が駒ヶ岳で護摩供養

18 天保8年(1837)南箕輪の俳人 東朝軒亀伯が雨乞いのために登山(駒ヶ嶽詣)

19 天保13年(1843)高遠藩儒者 中村元起が権現山より駒ヶ岳に登る(駒嶽記游)

20 天保14年(1843)田中甚庵が旧小出村より登山(登山記)

21 安政年間(1854~59)木曽の代官 山村良醇が上松より玉の窪から登る(登山記)

22 文久元年(1861)尾張藩士 山田貫一郎藩侯の代理として登山 駒ヶ岳神社本殿再建

駒ヶ嶽由來記 (pdfファイル、1069073バイト)

23 明治10年(1844)東伊那火山の下平弥七(覚順)が中岳に上り凍死(上伊那誌人物編)

24 明治18年(1885)伊那市 大成教の石川先明が駒ヶ岳寂本先明教会を開き駒ヶ岳に祀る

保食神(うけもちのかみ)を主神として、しばしば駒ヶ岳に登る

25 明治元年(1867)大阪造幣局の技師 ウイリアム・ガウランドが「中央アルプス」と命名

26 明治22年(1889)地理学者の原田豊吉により木曽山脈と命名される

27 明治24年(1891)ウェストンが上松から伊那町に12時間で踏査し「日本アルプスの登山と探検」という紀行文で木曽駒ヶ岳を世界に紹介

28 明治25年(1892)頂上の駒ヶ岳神社に先明教会の議員一同が加入 駒ヶ岳行者が益々盛んになる(先明教会史料)

29 明治27年(1894)陸地測量部が木曽駒ヶ岳山頂に三角点設置

30 明治42年(1909)8月 河野齢蔵、矢沢米三郎が、駒ヶ岳、空木を縦走し中小川を下り調査(日本アルプス登山案内)

31 明治44年(1911)陸地測量部が5万分の1地図「赤穂」を出版
赤穂

32 大正2年(1913)8月26日 中箕輪小学校赤羽校長以下11名凍死(聖職の碑)