光前寺の開基とされる本聖上人は
 安時代初期、比叡山延暦寺天台座主の円仁(慈覚大師)の弟子であった本聖が、始祖最澄と師匠円仁が行った東国巡錫に倣い、東山道を東へと進みました。貞観2年(860)、本聖は東山道の難所である御坂峠を越えて信濃国に入りました。この時代の伊那郡は天竜川など大中の河川と、ほぼ東山道に沿った住居、条里制による狭小な田園が点在するのみで、大部分は鬱蒼としたブナなどの広葉樹林に覆われていました。その景色を見ながら旅した本聖は、東山道の賢錐駅(上伊那郡中川村)を過ぎてしばらく進むと、流木や崩れた土石によって地獄のように荒涼とした大田切川(おおたぎりがわ)を眼にしました。

木曽駒ヶ岳山系を源に流れる大田切川は、山腹の崩壊と大雨などによって神坂峠に次いで難所とされていました。最澄が神坂峠を越える旅人の難儀を救うために「広済院、広拯院」を設けたように、大田切川の北には東山道の宮田駅(上伊那郡宮田村)があるので、その南に院を設けることにしました。院を置くにあたって、大田切川の傍は常に危険に晒されていたので、やや南へ離れた池山1、773.8mの麓に院を選びました。ここは木曽駒ケ岳を中心とした修験霊場としても適地で、池山まで登りきれば後は尾根に沿って空木岳(うつぎだけ)2,863.7mまで行くことができました。そこから緩く長い尾根に沿って木曽駒ヶ岳2,955.95mへと行き、そのまま黒川に沿って院近くの大田切川まで戻ることができました(全長約50km、高低差約2,000m)。その途中には大きな滝(下伊那郡宮田村 不動滝)があり、本聖はそこで修行をして不動明王を会得しました。やがて本聖は、比叡山からの旅に小原弥五郎という者を供に連れていたので、彼を中心に比叡山麓の大原(京都府)から百姓を呼び寄せて、用水を引いて院の周辺を開墾させました。

doukutu
   本聖上人の篭った洞窟 (上人が篭った事から下に流れる澤は篭ヶ沢と呼ばれている)