今から数万年前の氷河時代に作られた氷河圏谷底湖であり日本では、数が少なく数箇所見られない貴重な自然遺産である。

濃ヶ池史跡

1736年(天文元年)高遠藩の内藤庄左衛門が領地検分した時の見聞記「駒ヶ岳一覧記」によればのう池は東は御所山、南は駒形山があり(中岳)西も岳つづきの山、北は大成山である。西から見下ろせば、のうが池まで二丁ほどあるが、水の色は青々としている。

青く幅七。八寸グラスと見える筋が池の真ん中を通り、向こう岸よりこちらの淵までうねっているように見えると記されている。

又阪本天山の父や運四朗英臣の「駒ケ岳見分復命書」には、池に入って深さを計ったり飲んだりして調査している。又古文書の文献には色々の検分記がある

1907年には、辰野小横川宮木新町の講中が池の傍に青銅製の黒體竜王を祭った。

大正2年の中箕輪尋常高等小学校の遭難記「聖職の碑」の作者新田次郎の現地見聞によれば遭難者の清水政治と萩原三平が朝までビバークした岩が濃ヶ池を過ぎると右側に三つの岩が重なり合っているようになって、そこに三角の空洞を作っているのがあり、その空洞の口が東を向いていた大人2人は無理だが、大人と子供2人ならようやく入れるぐらいの容積があった。と記されている。

又大正13年には、濃ヶ池小屋(2×3間新谷孫八郎借用)

があったが、雪崩のため度々倒壊して修理に耐え切れず昭和5年3月に帝室管理局に返地している。

伝説.口伝

伊那の内の萱に居たお濃という美女が姑に追い出され柳の杖を突いて濃ヶ池まで登り、池の端に杖を立て身投げした。そしてお濃は蛇となった。それで濃ヶ池と呼ぶようになった。池の端には杖に根が付き柳の木が育った。(池周辺にはやなぎ木がある)

又、木曾の大原村の女が投身死した。静かな夜など湖底から機織りの音が聞こえると言う伝説もある。

天明4年7月に高遠藩の坂本英臣は濃ヶ池に入り肩切りの深さまであったと記している。

当時、馬の背の頭から見ると蛇かのたったように青い筋が見えることから木曾の人々は縞池と呼んでいた。

又木曾側の雌濃ヶ池と対比して雄濃ヶ池とも言われている。

濃ヶ池1

濃ヶ池には、幾つかの神様と社が祭ってある。

濃ヶ池2

濃ヶ池3

青銅の天台大神
青銅の天台大神

木曾日義に伝わる濃ヶ池の伝説

お濃は、隣の大原の農家の娘で、としごろになり原野の六郎左衛門基へ嫁ぎました

ある日帰りが遅くなった夫が、寝支度をして部屋へ入ってみると、熟睡しているお濃の体は大蛇に変わり、髪を逆立ち、肌も鱗で覆われていました。夫はあまりの恐ろしい姿に驚き、お濃を家から追い出してしまいました。お濃を迎えた実家では、「娘にありもしない難くせを就けるなんてとんでもない」と憤慨しましたが、夜になり父母がお濃の部屋をのぞいて見たものは、まぎれもなく頭髪逆立ち鱗が生えた大蛇の姿でした

お濃は実家からも追われる身となってしまいました。夫からも父母からも見捨てられ天蓋孤独な成ったお濃は、その不幸を嘆きつつ野原をさまよい大きな石上で野宿したりしました。(この岩は七尋石として今でも大蛇の鱗とお濃が持ち歩いた麻桶の跡がある)

そして絶望の中、柳の枝で杖を創り、大原の奥にある駒ケ岳の麓の池にたどり着きました。青く澄み切った静かな池を見つめていたお濃は、やがて杖を岸に突き刺し水中に身を投じました。

その後里人は、この池を濃ヶ池と呼ぶようになりました。お濃が入水してあと岸に刺された杖は根付いて大きな柳の木になりました。そして池のほとりの柳の木の下に立つと池の中から機を折る音が聞えてくる時がありました。その時は必ず大雨が降りました。

駒ケ岳見分復命書(後駒ヶ岳一覧記)

1756(宝暦6)年、旧暦8月12日(太陽暦で9月6日)の早朝、宮田の町を出発して小田切川の河原を西へ向かう人の群れがありました。60人ほどの一行を率いるのは、高遠藩郡代阪本運四郎英臣。彼等は検分のため駒ケ岳へ登ろうとしているのでした。

その足跡を、英臣が藩に提出した「駒ケ岳見分復命書」によってたどってみると、大田切の本谷を進んだ一行は、地蔵平の左手を山に分け入り、中御所川へ下って谷筋をたどり、北御所の谷の境を越えて途中の「清水小屋」という場所で一泊し、翌日はもとの河原へ下り、再び中御所の谷筋を歩いて大横川の上の大滝の下まで進み、そこから右の方へ急傾斜をよじ登り、大横川との間の尾根に出て、前岳の五、六合目のはい松の中で二泊目の夜を明かし、翌日は未明に出発して日の出ころ前岳へ登り、そのあと宝剣岳から中岳、本岳を経て濃が池へ下り、再び大釣根へ出て三度目の夜を明かし、権現山から現伊那市の小出村へと下る、というものでした。

英臣は、山が荒れるから山の上で大きな声を出すものでないと村役人や人足が言っていると、宝剣岳へ向かって鉄砲を撃ち大岩を落として大声をあげさせ、濃が池では水中に入って深さを測り、毒水だと言われている水を飲んで、それらが何の根拠もないことであることを確かめたり、人足らが山男のものだと騒いだ足跡を詳細に調べ、足跡の中に爪の形が見えることから、前足と後ろ足が重なって大きな足跡に見えるのであり、近くに動物の糞があることからその正体は熊であろうと判断するなど、科学的見方を持った人物で、復命書に移動した距離や見てきたものの方向、岩や滝の姿や大きさなどを数字で克明に記し、全行程を歩測などによって図面に残すばかりでなく、各所で測量をして、多くの分間絵図を作成して藩へ提出しています。(残念ながらその絵図は、今は高遠に残っていないようです)

英臣の子、阪本天山が、父が残した記録と絵図をたよりに駒ケ岳へと登り、あの有名な勒銘石を尾根上に刻むのは、その28年の後、天明4年のことで

**古文書にでてくる濃ヶ池

内藤庄左衛門の駒ヶ岳一覧記の中に、のうか池というのは三つある。残りの二つのうち、一つは木曽側の七分目程のところにある。これが一番大きく、本のうか池というべきであろう。もう一つは空木岳 にあるが、こののうか池には水中畏形の筋など見あたらないとある

天保8年に雨乞い登山した南箕輪の百姓に同行した、俳人東朝軒亀伯の「駒ヶ嶽詣」には7月20日朝 内の茅-----澤道------一の池------扇平------釜の岩-----体内くぐり-------将棋頭(昼飯)------濃ケ池の頂----

濃ヶ池に下り駒ヶ嶽大権現に雨を祈る(夕飯)----岩角に眠る。次の日行動記録の後、濃ヶ池の名はこの池の水が流れ出して黒川となり、耕作のようをなすゆえ「農家池」とも言い、木曽側の雌濃ヶ池に対比して、雄濃ヶ池とも言われている。とある

宝暦6年阪本運四郎英臣の「駒ヶ岳見聞復命書」では検地の場所として、前岳の峰の平地・本嶽の峰の平地・尺丈ヶ嶽下石・尺丈ヶ嶽より二の嶽の間の平地・濃ヶ池・一の泥が池・二の泥が池・三の泥が池とある

蕗原拾葉の「信濃木曾駒ヶ嶽明細図」では、上松登山コースの八合目の右の山に種池があるとあり

「吉蘇志略」では農婦池について「在駒嶽西北麓 池在山上 延表三町許 其深不可測 水色如藍」即ち駒ヶ嶽の西北の麓にあり、山の上に池あり表面は三町ばかり、其の深さ測ることできない、水の色藍の如し。とある。

更に駒ヶ岳由來記の中で「此山に池あり、第一身會貴池と言い、第二を駒飼池、第三を農ヶ池と言ふと記されている。

駒ヶ根市の郷土研究か家下村忠比古氏の「駒ヶ嶽に纏わる話」の中の濃ヶ池の項で木曽駒農ヶ池と称して駒ヶ岳本岳から西北に向かって木曾側に少し下った所に池がある。其渓岩壁の一部が崩壊したので、枯渇して今は小さくなっているが、以前は濃ヶ池よりも大きく木曾の人達は、「本のふか池」とよんでいる。と記している。

文化14年高遠藩士、む田中甚庵の駒ヶ岳登山記の絵図の中には、西山権現に下る途中に三ヶ所池の印がありニゴリ池と泥池と記されている。

伝説の柳の木発見

伊那の内の萱に居たお濃が姑に追い出され柳の杖を突いて濃ヶ池まで登り、池の端に杖を立て身投げした。そしてお濃は蛇となった。その?柳が見つかった。

濃ヶ池には、ヤナギの木はここにしかない。

濃ヶ池のヤナギ
濃ヶ池のヤナギ